団鬼六の『異形の宴』を読んで彼の事を知った。 責められた女体美を生涯描き続けた異端の画家です。 彼のモデルを務めた美人の兼代(お葉)は、知る人ぞ知る、 あの竹久夢二と恋に落ち3度目の妻(入籍はしていない)になった人です。 晴雨は、お葉を3年におよびモデル兼愛人としていたのです。 お葉と別れた後、女房の竹尾と正式離婚。 その後キセ子と所帯を持ち、彼女をモデルに残酷画を描き続けます。 「妊婦逆さ吊り」。キセ子は晴雨に協力的でした。 3度目の妻は「雪責め」のモデルを務めたと言われています。 3年の闘病生活の末発狂して亡くなります。梅毒症でした。 その後晴雨は生涯妻帯しなかったのでした。 その後、晴雨について、もっと知りたいと思いました。 図書館で、「伊藤晴雨自画自伝」を借りて読みました。 それを読んで、私は彼にぞっこん惚れ込んでしまったのです。 瀬戸内寂聴さんの言葉を借りて言えば、 「人に評価される為に生きるのではなく、自分がどう生きるのか」だと。 晴雨は、世間の風とは、まったく違う場所で、自分らしく生きた人だと思います。 彼の書いた絵画は、今でもかなり高い値で売られているみたいです。 中でも、ハリウッドチェーン社長、福富太郎氏は、有名なコレクターです。 この「自画自伝」も彼により編集されています。 晴雨について ■明治15年浅草に生まれる。本名伊藤一。父貞次郎は彫金師。 幼少時より「絵の天才」と言われ光琳派の絵師・野沢堤雨に8歳より弟子入り。 ■晴雨9歳。責め芝居を見て大いに心動く。 晴雨は、女性の乱れ髪に異常な程に興奮する。今で言う髪フェチである。 女の髪の匂いや、芝居の折檻シーンに言い知れぬ喜びを感じる少年だった。 ■12歳。本所の象牙彫刻師・内藤静宗の元へ丁稚奉公に出される。 読書熱は相当なもので、主人の本を全部読んでしまうと、蔵書家の手伝いを して、本を借りた。寝る時間も削って絵を書く毎日だった。 ■23歳で内藤家を飛び出し、芝居の看板絵描きになる。 彫刻師になるのが嫌で京都まで無賃乗車。 割烹店、料理屋の出前持ち、印刷職工の見習いと転職しているうち 病気になり東京に逆戻りする。 ■25歳。毎夕新聞社入社。連載の講談、小説の挿絵や演劇評を担当。 尋常2年しか出てない晴雨であるが、勉強熱心で彼の書いた劇評は、色々な 方面から注目され大いに好評であった。 ■27歳。包茎手術。背景画家・玉置照信の義妹・竹尾と結婚。 毎夕新聞から読売新聞社に転じる。 「やまと新聞」の挿絵主任、「読売新聞」の演芸部長兼挿絵主任、 「毎夕新聞」の挿絵主任、博文館の「演芸倶楽部」と「演芸画報」の嘱託。 劇場真砂座の絵画部主任。これ以外にも絵の依頼があった。 高額な所得は、すべて酒と女に使って連日放蕩を繰り返していた。 ■30歳。長男・正明生まれる。 ■34歳。お兼(お葉)をモデルに「責め絵」を描く。 お兼、この時12歳。美術学校のモデルがない時は、宮崎モデル紹介所で 仕事をとっていた。ここで晴雨と出会ったとされている。 晴雨曰く「女の責場のモデルは、私にとって絶対に肉体関係があった方が 良いと思う。情欲の切迫感がその1歩手前のところでストップしていなければ 醜悪の感じばかりがでて、美の観念が表現できない。平凡に言えば、お役で 縛られ、1時間何円かのお勤めでのポーズを作っていたのでは、実感が 出てこないのである」 ■35歳。長女・菊生まれる。 ■37歳。竹尾と離婚。2度目の妻となる佐原キセと知り合う。 ■39歳。妊婦逆さ吊りの実験を行う。 彼女も、また美術学校のモデルで24歳。キセは元々そうした性癖があった。 晴雨の要求に積極的に参加していく。10年後キセは、晴雨の食客として おいておいた早稲田出身の文士の卵といい仲になり晴雨の元を去る。 ■49歳。3度目の妻が発病。3年の闘病生活を送ったのち死亡。 これにより、晴雨は多大な借金をかかえることになった。 ■62歳。長男・正明、戦死。 ■63歳。駒込動坂の自宅、戦火で焼失。 写真や書籍など長年集めた資料を全て失う。 ■78歳。長い挿絵画家としての功績により、「出版美術連盟賞」受賞。 大きな賞に恵まれない晴雨であったが、この賞を受賞した晴雨は終始 ご満悦だったと伝えられている。 ■昭和36年1月28日、死去。享年78歳。 |
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私は、どんな本も「あとがき」を1番先に読む習性がある。 これを先に読んでくれてる人はいるかな?(笑) 晴雨は、自分の一生癒らない病気として“悪戯っ気”だと指摘している。 少年の時観た芝居の“責め場”が一生彼の心を動かし、責めの研究をし 続ける。大正末になると“責め場”のある芝居が少なくなり、ついに自分で 芝居を組織してしまうのである。「私がその時望んでいたものは、舞台の 残虐美の実現であった。女の責め場を美しい女に演じさせる脚本を自ら作り、 自ら演出し、自ら背景を書き、興業主となり、大道具方となり、作者となり、 諸事万事一切自分の手でやって行くという方針の小劇団を作った」 亡くなる3日前に「内外タイムス」の取材を受け“縛りの講釈”などして 上機嫌であったと言う。彼らしいと思った。 晴雨の弟、順一郎は、兄を「外では放胆な奇人で通っていても、自分の仕事 を見る目は厳しい、たいへん努力家でした」と言う。 娘の菊は、「父は何事にも徹底してました。わからぬことを、そのまま投げ出し ておくのを嫌い、調べのつかぬことでもそれなりに必ず心に留めておくように すべて日常頃頭を使い、足を使い、目を大きく見開いて物事を注意深く わきまえるよう教えられました」 「良いところと悪いところが極端で、真ん中 がなかったというのが父の姿だったんでしょうか」 世間では「変態画家」や「奇人」と言われていた晴雨だが、私は晴雨の やりたかった事がわかる気がする。女性のエロティシズムと言うのは やはり表情にあると思う。それも快楽と苦痛の狭間が1番美しいと思う のだ。大きな賞には恵まれなかった晴雨であるが、彼は自分の一生に きっと満足だったのではないかと思う。素敵な人だと思う。 伊藤晴雨、藤島武二、竹久夢二と、それぞれ画風が異なる 3人の画家に、多大なインスピレーションを与え続けたお葉もまた、 私の中では魅力ある女性である。その生涯は波瀾に満ちていたが 私には、とてもうらやましい。彼女の求めていたものは、平穏な 家庭におさまることだったに過ぎないと思った。 お葉の結婚から半月で海外に旅立った夢二の心境もまた はかりしれないと思った。人間模様は複雑。だから面白いのかもしれない。 |